4.1 新政府軍の上陸
新政府軍は、宮古湾開戦に敗れた幕府軍が函館に帰港した26日から14日後の4/9日、乙部に上陸します。
敵艦は、入港順に「甲鉄」「春日」「ヤンシー」「オーサカ」「丁卯」「陽春」「豊安」「飛龍」です。
警備の手薄だった乙部に入港されたとの報を聞き、江差警備の任についていた一聨隊3小隊が駆けつけます。
すでに上陸した兵と銃撃戦になり、更に敵艦からの砲撃も絶えません。
そんな状況で勝てるはずもなく、一聯隊は土場川へ退却。
しかし、敵艦は江差への砲撃を行いました。
江差でも、砲台からの反撃を試みますが、性能の違いから、大砲が敵艦へは届きません。
その日のうちに、旧幕府軍は松前まで敗走しました。
新政府軍は、それぞれ、松前口鶉山道口、木古内間道口、の3道に別れて進軍を開始しました。
4.2 松前口での戦い@
4/11、再び江差を奪還しようと、遊撃隊、陸軍隊、一聯隊、彰義隊、工兵隊など約500名は、出陣を開始します。
根部田村で、新政府軍と遭遇します。
夕方かた、約4時間ほどの銃撃戦が行われ、見事、旧幕府軍は新政府軍を敗走させます。
ちなみに、遊撃隊といえば伊庭八郎ですよ!!!
このときの彼の格好良すぎる台詞は、知識の泉をご覧下さい。
翌朝にも、旧幕府軍は江良にいた兵を退却させています。
これらの戦いで、新政府軍死者100人に対し、旧幕府軍死者は5人だそうで。。。すごいなぁ
しかし、五稜郭本営からの命令により、旧幕府軍は松前に引き返し、滞陣。
理由は、新政府軍が二股道・木古内道より兵を進めてきているから、とのこと。
これ、勢いよく進んでいた兵達にとって、どんな思いで受け取られたんでしょうね?
さらに、いくら勝っているとはいえ、喜んでいるわけにはいきません。
この時、幕府側の軍資金は、底を尽きてきていました。
兵も、次々と上陸する新政府に対し、旧幕府軍は減っていくばかり。
この戦いでも、新政府側は、翌12日には第二陣が、15日には黒田参謀率いる第三陣が、江差に到着しました。
武器弾薬の補充もばっちり、なわけです。
4.3 木古内での戦い@
一方、木古内の守備は、彰義隊、伝習隊1小隊。
12日に、付近を守備していた、星さん率いる額兵隊、五稜郭からは大鳥さん率いる伝習隊1小隊が駆けつけます。
味方が斬られたと聞いて、大鳥さんは、伝習隊2小隊、額兵隊1小隊、彰義隊数名を連れて、あたりを探します。
そのとき、新政府軍は、すでにその場所にいたのです。
江差から、木古内口を進軍してきた一隊です。
大鳥さんびっくり!笑
でも、彼は冷静に判断し、兵を一度退陣させました(地形的に、そこは新政府軍に有利だったわけです)。
その頃、星さんは大鳥さんが勝手に(笑)敵陣に向かったことを知り
「敵は大勢、殊に嶮を取りて戦をなさん。大鳥の小勢、はなはだ危うし」
と言って、後を追います。
これ、大鳥の小勢〜っての、「こいつじゃ防ぎきれるわけがねぇ!」って言ってるように聞こえるのは、私だけ??笑
夕方になって、星さんら額兵隊1小隊が大鳥さんらの布陣したところに来るのですが、新政府軍は姿を現していませんでした。
大鳥さんも、木古内に引き返そうと思っていたところだったので、一度みんなで木古内へ戻り
戦闘の準備をします。
翌13日深夜、再び進軍してきた新政府軍と彰義隊の間で戦闘が開始されます。
大鳥さんや星さんの隊もすぐさま応援に駆けつけますが、朝霧が酷く、視界は殆ど見えなかったそうです。
気づけば、お互い敵兵の姿が見えるほどの接近戦に。
そこで霰弾を打たせると、群れになっていた敵兵は弾に当たって倒れ、敗走を始めました。
約1時間半の戦いで、旧幕府軍は、新政府軍を敗走させることに成功したのです。
4.4 二股口での戦い@
4/10、土方さんの率いる衝鋒隊2小隊・伝習隊2小隊は、鶉山道二股口に到着しました。
部隊には、フォルタンが同行していまして、到着後2日間かけて、16箇所の胸壁を構築しています。
新政府軍は、12日に稲倉石にまで進軍してきました。
そして13日の正午過ぎ、600人近くの新政府軍が攻撃してきます。
土方軍は、胸壁を盾にしながら銃撃戦を繰り返します。
数の多い新政府軍は、次から次へと押し寄せてくるのですが、対する土方軍も、2小隊ずつ交代で、休憩を取らせながらの攻防戦を行いました。
やがて、日が落ち、雨が降り出しました。
上着を脱いで弾薬庫を守り、雷管が湿ると懐に入れて乾かし、銃撃戦は続きます。
この時の様子を、ホルタン(フランス軍事顧問)が、ブリュネにこう伝えています。
「味方の働きはすさまじく、誰一人怠けるものはいなかった。
味方の顔は、火薬の粉で黒くなっている。あたかも悪党に似ている。」
。。。悪党。笑
銃撃戦は翌日朝6時まで、16時間もの攻防戦が続きました。
7時頃、新政府軍は断念し、稲倉石まで撤退しました。
この戦いに旧幕府軍が費やした鉄砲の弾は、35000発にもおよんだそうです。