4.5 松前口での戦いA



17日、新たな兵を入れて1500名にまで膨れ上がった新政府軍は、再び松前に向けて進軍を開始します。

因みに、松前にいた旧幕府軍は500名ほど。

また、再び江差に向けて進軍していた旧幕府軍は、敵艦春日からの砲弾を受け、退却したところに陸軍が押し寄せてくるので、総崩れになります。

結局旧幕府軍は清部まで退却し、そこで戦闘を繰り広げますが敗戦、松前城下入り口付近の折戸浜台場まで引き上げます。

しかしながら、松前には軍艦5隻が追いかけて来ていました。

軍艦からの砲撃は、折戸浜台場、松前城にむけられました。



折戸浜での戦いによる死者は40名以上。

伊庭八郎の親友、本山小太郎もこの戦いで命を落としました。


敗走した旧幕府軍は、18日、木古内の守備兵と無念の合流を果たすのでした。





4.6 木古内での戦いA



新政府軍を敗走させた、大鳥さんや星さん率いる旧幕府軍の皆さん。

18日に、大鳥さんは軍議のため五稜郭に戻ります。


彼の命で、札刈にいた遊撃隊、泉沢にいた一聯隊を木古内に呼びました。

遊撃隊はすぐに19日、木古内に来るのですが、一聯隊が来ません。

伊庭さんは、自ら泉沢まで馬で行って、一聯隊を引っ張ってきた、なんて話が。

格好いいなぁ。



20日、新政府軍が再び攻撃を仕掛けます。

その日の深夜、霧に紛れて木古内の陣地を襲撃し、火を放ちます。

大勢の新政府軍によって攻撃され、旧幕府軍は総崩れになりました。


伊庭さんが、被弾し、再起不能の重体になったのも、この時でした。


旧幕府軍は、泉沢へと敗走します。

泉沢には、新たに伝習隊一小隊、額兵隊一小隊、衝鋒隊1小隊が応援に来ていました。


また、知内には、松前から敗走した彰義隊、陸軍隊、会津遊撃隊、神木隊、砲兵隊らが留まっています。

つまり、木古内を挟撃できるのです。

攻勢に転じた旧幕府軍は、木古内を奪還しよう、ということになりました。


札刈まで追撃していた新政府軍も、連日の戦で疲れているところに、挟撃となれば、敗走せざるを得ません。

おまけに、この日大鳥さんが海軍の出動を要請して、五稜郭から木古内へと向かっていたので、回天と蟠龍が札刈へ砲撃を仕掛けたのです。

たまにはやります大鳥さん!!


こうして、木古内は再び旧幕府軍が奪還に成功したのです。



4.7 木古内〜矢不来へ。と函館沖での海戦



20日、木古内の陣地に戻った旧幕府軍は、こちらも再び木古内へ戻った大鳥さんに再会します。

大鳥さんは、彼らに茂辺地への移転を命じました。

守備隊は反対しましたが、大鳥さんにもちゃんとした理由があったんです。

それは、大鳥さんがここへ向かうとき、敵艦春日が援護に向かっている、ということを知ったからです。

松前口と木古内口から攻めてくる新政府軍に対して、この場所は平坦なため防戦にむいていない上に、海からも攻撃をされてはたまらない、と考えたのです。

なので、旧幕府軍は、その日は泉沢に布陣、翌21日、矢不来へと向かいました。



一方、木古内から函館に戻ろうとした回天と蟠龍は、21日、別当沖で春日と飛龍に遭遇。

その日は勝負が付かず、戦いは終わりましたが、24日、新政府軍は甲鉄、陽春、丁卯、春日、朝陽を出してきます。

旧幕府軍のほうも、千代田、蟠龍、回天で応戦。

早朝から行われたこの戦は、結局勝負がつかずに、昼2時過ぎ、新政府軍は引き上げました。





4.8 二股口での戦いA



新政府軍は兵力を増やし、武器弾薬を備え、再び決戦のときを待ちました。

22日に攻めてみたものの、やっぱり無理そうです。

そして23日午後4時頃、再び激戦が繰り広げられます。

また、徹夜での攻防戦。

このとき、新政府軍は胸壁突破を断念し、峻嶮によじ登って、旧幕府軍の左手山から銃撃を行っていました。



24日未明、五稜郭より派遣された滝川充太郎率いる伝習士官隊が到着。戦況を見た滝沢さんは、馬に乗ったまま胸壁を乗り越えて、敵に向かっていきました。

これに続いて、伝習隊の隊士たちも一斉に抜刀、後に続きます。

新政府軍はいったん敗走を始めました。


しかし、新政府軍もそう簡単には引きません。

再び、新たな兵を送り込んできます。

土方軍は銃撃を続けますが、銃は、連続して撃つと銃身が熱くなるので、川から水を汲んでは銃身を水につけて冷やしながら、射撃を繰り返したそうです。

ようやく、25日の午後3時頃、新政府軍は撤退していきました。

土方軍、またしても勝利です。



土方さんは、残った兵に矢不来へ援軍を行かせますが、その甲斐も無く、矢不来は敗走。

ここが突破されてしまったことにより、敵に退路を断たれてしまう恐れがあったので、29日、五稜郭からの撤退命令により、帰陣します。

その際、一切の設備は破壊。

さらに、地雷まで埋め込んでの撤退でした。

さすが。。。土方さんですね





4.9 矢不来での戦い



木古内から移動してきた旧幕府軍は、矢不来を中心に、茂辺地から富川にかけて布陣しました。

大砲4門、山の胸壁は二十箇所以上という装備です。


因みに、守備は


■茂辺地⇒彰義隊1小隊

■天満宮の森⇒衝鉾隊、会津遊撃隊

■矢不来胸壁⇒彰義隊

■山上胸壁⇒遊撃隊、砲兵隊、伝習隊

■海岸⇒額兵隊

■富川⇒額兵隊2小隊



新政府軍は28日、行動を開始しました。

午前3時半、陽春が茂辺地を、一時間後には陽春、丁卯が矢不来を砲撃します。

陸からは、海岸、本道、山上の3箇所から一斉攻撃。このときにはすでに戦艦からの砲撃で、旧幕府軍は総崩れになっていました。

新政府軍は、更に戦艦4隻を投入します。矢不来や茂辺地は死傷者が続出しました。


天満宮の森でも、衝鋒隊士官・永井蠖伸斎と天野新太郎が指揮をとるものの、多勢に無勢で歯が立たず、二人とも戦死してしまい、衝鉾隊は総崩れになります。

山上の胸壁が破られたときには、一気に50余名の死者が出たそうです。

皆は、富川へと敗走します。



星さんは、自刃を覚悟します。

しかし、大砲差図役の今野七十郎と、額兵隊士・三浦富之助の2人に励まされ、富川へと落ちるのでした。

戦闘が終わったのは、正午に近くなっていました。





4.10 富川と有川にて



富川では、額兵隊2小隊が守備についていました。

29日、砲台からの狙撃が敵艦・陽春に命中しています。

矢不来の戦いで破れた兵士達がみな富川に敗走してきました。


大鳥さんも、この中にいます。

星さんたち3人も、なんとか富川までくることができました。


富川口は額兵隊が守備についていましたが、弾薬も尽いていたんので撤退。

皆は、有川へと引きました。



富川口は、見国隊2小隊が新たに守ることになり、額兵隊は、有川の北裏を守備することに。

しかし、見国隊が、とんでもないことをやっちゃいます。

なんと、敵兵を、味方の敗走兵と間違えて、迎え入れてしまったんです。

新政府軍は有川南裏に回りこみ、狙撃。額兵隊は、当然総崩れとなります。

有川にいた兵士達も、みな慌てて逃げ出しました。

丁度、矢不来での敗報を聞いた榎本さんが、自ら遊撃隊を率いて五稜郭から様子見にきていたのですが、この有様にびっくり。

味方兵を食い止めようと刀を抜くものの、皆散っていくばかり;;

仕方なく、撤退を命じ、遊撃隊を殿として、五稜郭へ帰陣するのでした。