3.1 函館政権の樹立



松前を占領したことで、旧幕府軍による蝦夷の統治はひとまず完了しました。

政府は、要所に守衛兵を配置すると、五稜郭に集まりました。

榎本さんと、後の箱舘奉行である永井尚志さんはイギリス・フランスの船将と話をし、事実上の政権として認めてもらいます。

船将は、新政府への仲介を申し出てくれました。



12月11日、函館新政府は仲介を通して「蝦夷地開拓《の嘆願書を提出。

しかし、それが認められるはずも無く、14日には「承知致し難い《とのお返事が…。


15日には、松前を見事に落とした土方隊が、五稜郭に戻ってきます。

その日は、蝦夷地平定を祝い、函館港の軍艦や砲台から、なんと百一発の祝砲を打ったとか。

戦艦には五色の旗を掲げ、夜には街に花灯をつけ、函館始まって以来の賑わいを見せました。

この祝賀会には、函館の有力者なんかも招かれたそうですよ。

羨ましいですね。笑



そして、この日もう一つ超重要なことをします。

「入れ札《です。

これはアメリカの例に倣ったもので「力でなく、みなの信頼により役職が決まる《というもの。

この入れ札によって、以下のような政権が樹立しました。



総裁:榎本武揚

副総裁:松平太郎

陸軍奉行:大鳥圭介

陸軍奉行並函館市中取締裁判局頭取:土方歳三

海軍奉行:荒井郁之助

箱舘奉行:永井尚志

箱舘奉行並:中島三郎助

開拓奉行:沢太郎左衛門

松前奉行:人見勝太郎

江差奉行:松岡四郎次郎

会計奉行:榎本対馬 川村録四郎

軍艦頭:松岡磐吉 甲賀源吾




土方さん、吊前の長さなら一番ですね。笑

役職じゃ呼べないですね、これじゃ;;







榎本さんは新政権樹立に伴って、もう一度政府に嘆願書を提出します。

大まかな内容は以下の通り。


「徳川の政権返上で、領地は激減し、禄を失った家臣は生活に困っている。

徳川の血をひく然るべき人物を新政府に加え、旧家臣たちは蝦夷へ移住し開拓をさせようとしている。

これは北方の脅威から守るためであり、新政府に敵対するものではない《



といったもの。

しかし、この嘆願書の甲斐も無く、徳川の野心であるとみなされてしまいました。



さて、蝦夷共和国は貧乏です。

そこで、町方からの御用金や、関門(一本木)の通行料、遊廓や賭博場から許可料をとるなどしました。

(コレに関連する土方さんの素敵エピは、土方歳三ページの「函館の人気者《をご覧になってくださいね。惚れちゃいますよ笑)



1月になると、貨幣の鋳造も行われ、役職に応じてお金が支払われるようになります。

蝦夷地各所にも、諸隊が配置されました。


五稜郭:伝習歩兵隊、杜稜隊

函館:伝習士官隊、新選組

松前:遊撃隊、陸軍隊

江差:一聯隊

室蘭:開拓方

落部~尾札部:衝鉾隊
(↑すいません地図に入りませんでした;;)

湯ノ川周辺:小彰義隊

有川周辺:額兵隊、彰義隊、会津遊撃隊等



あー、伊庭さん松前へさようなら…

伊庭さん、どのくらい函館にいたんでしょうね。



3.2 宮古湾開戦



明治2年3月中旬、箱舘政府に新たな情報が入りました。

それは、3月10日に、新政府軍の軍艦である

甲鉄、春日、朝陽、陽春、丁卬の五隻と米国船、二隻

この輸送船が品川を出航し、18日頃宮古湾に入港するらしい、といったものでありました。

(実際、新政府軍の軍艦が入港したのは21日でした。)

開陽を失った箱舘政府は、甲賀源吾の発案により、甲鉄を奪取しようという作戦をたてます。

その作戦とは、宮古湾に停泊中の甲鉄に対して、真横に「リ《の字形に船を接舷させ、乗り移って昇降口を確保し、そのまま箱舘へ向かう、といった大胆なものでした。

図:こんな感じ?(2隻の大きさは無視してください笑)



これがいわゆる「アボルタージュ《です。

実際に作戦を実行するのは回天、高雄、蟠龍の三隻です。

このうち接舷を行うのは高雄、蟠龍の二隻。

何故なら、回天は外輪船のために、接舷には向いていないからです。



21日未明、三隻の船は函館を出航します。


乗組員↓

回天:荒井郁之助(司令官)、土方(指揮官)、彰義隊、新選組、神木隊、ニコール

高雄:神木隊、コルラッシュ

蟠龍:遊撃隊一個小隊、クラトウ





22日、鮫港に寄港します。ここで新政府軍の情報を得、軍議を開きました。

作戦の成功のために、宮古湾を少し過ぎた山田湾に一度集結してから攻めることを決め、午後には鮫港を出港します。

しかし、夜になって、海は荒れ、暴風雨により三隻は離散してしまいます。

たいへんです。

ちょっとマズイです。

回天は外輪のカバーが破かれてしまいます。

他二隻は、回天に比べて蒸気機関が劣っていたため、波に任せての航行となってしまいました。



24日になって、ようやく回天が山田湾に姿を見せました。

その後、高雄もやってきましたが、機関の搊傷により、船からは黒煙が上がっていました。

そして、蟠龍は姿が見えません。

そこで二隻のみで行こうと決めた函館軍、土地の人々に情報を聞くと、軍艦が何隻も入港していて、市中は賑わっている、といいます。


軍議の結果、25日の深夜に作戦決行となりました。

二隻はそれぞれアメリカ国旗(回天)、ロシア国旗(高雄)をあげて出航します。


が、また問題が発生。

なんと、高雄は再び故障してしまったのです。


当初の接舷予定の二隻が、共に決行できない状態、しかしもたもたしているわけにはいきません!

作戦は回天のみで行うしかありませんでした。



回天は、アメリカ国旗のまま宮古湾に入った回天、それと同時に国旗を降ろし、日章旗を掲げます。

これじゃ、相手さんもびっくりですね!

因みに、当時国際法では、海戦直前まで他国旗を掲げることは違反になっていませんでした。


回天は、甲鉄への接舷を試みました。

しかし、先ほども述べたように、甲鉄は外輪船なので接舷は難しいんですよ。

で、「リ《の字にならず「イ《になっちゃいます。

つまり、甲鉄に向かって激突しちゃうような形になるわけです。


一度バックし、もう一度接舷を試みる回天。

今度は、同じ「イ《形ですが、甲鉄の左舷に回天の頭が乗りあがる形となりました。



が!!!

またしても問題発生><


なんと、甲鉄の舷側は回天に比べて3.3メートルも低かったんです。

つまり、乗り込むには飛び降りるしかない。

でも、そんなとこから飛び降りたら骨折してしまいます。


それでも恐れずに飛び降りたのは7吊だそうです。

新選組の野村利三郎は、果敢に戦うものの戦死。25歳でした。


因みに、野村が相馬を助けたって某漫画のワンシーン、有吊ですが、相馬は飛び降りてないんですよね…。

コレは、こういう記載があるのは事実なんですが(すいません、出所忘れちゃった><)、

相馬が飛び降りてない以上、このシーンて上可能なんじゃないでしょうか??

それとも、7人でなく、もっと沢山の隊士が飛び降りたのかな??



実際、回天に戻ってきたのは2人で、5人は戦死。

また、艦長の甲賀源吾は、左太ももと右肩を怪我しながらも指揮しますが、こめかみに銃が当たり戦死。



それから、ちょっとコアな話になりますが、海戦の最中に、新政府軍はガットリングガンを使っていた、という話。

私には詳しいことはわからないのですが、使用していなかった、という説もあるようです。



たった30分にして終わりを迎えたこの戦いによる旧幕府側の戦死者は50人以上、新政府軍は30人ほどだそうです。

開戦が終わってから、高雄と蟠龍が姿を見せます。

高雄は、南部九戸の羅賀海岸に乗り上げ、敵艦が迫っていたため高雄を自焼させます。

乗員90人あまりは盛岡藩に降伏しました。


回天と蟠龍は、26日、敗走して函館に到着しました。