5.1 千代田座礁
五稜郭へと帰陣した旧幕府軍。
5月1日、新政府軍は進軍し、とうとう七重浜までをも占領してしまいました。
土方さんらは、この日、七重浜への夜襲を新選組に命じました。
もう敵は目の前。決戦の日がもう近いことを、土方さんもよくわかっていたでしょうね。
さて。この2日前の4月29日のこと。
軍艦「千代田《が、斥候で七重浜を航行中、座礁してしまいました。
このとき艦長であった森本弘策は、乗員の制止も無視して、なんと蒸気機関を破壊し、砲門を閉ざすとさっさと逃げてしまったのです。
これには皆びっくり。
5月1日の夜、満潮で離礁した千代田は、簡単に新政府軍の手に入ってしまうこととなります。
因みに、この森本は禁固刑に処せられ、一兵卒に降格となりました。。。
そして、それを知った軍艦役の市川慎太郎は、責任を感じ回天にて自刃。
荒井郁之助が助けるのですが、その甲斐も無く市川は息を引き取りました。
責任を負うべきは森本なのに。。。
5.2 夜襲
5月1日夜、新選組と遊撃隊は七重浜に出陣します。
この後、5月3日には、星恂太郎率いる額兵隊のほか、衝鋒隊、遊撃隊、陸軍隊、彰義隊が赤川へ、そして大鳥圭介率いる伝習隊2小隊、新選組(新入りとか移動してきた人とか)、彰義隊、が七重浜へ夜襲をかけに行きました。
(大鳥さんの日記では、七重浜の夜襲5月6日って書いてあるんですけど。。。彼の日記より他ののほうが信用できそうだから(笑)3日にしちゃいました。爆笑)
額兵隊は強い雨風の中を歩き、午前2時頃になってようやく到着しました。
そして敵陣屋を囲むと、いっせいに射撃を開始したのです。
新政府軍はびっくりして出てきますが、なんせあたりはまっくら。
味方同士で斬り合うこととなってしまうのです。
夜襲は成功、といえるでしょう。
一方大鳥さんのほうは。
夜襲が行われたのは、深夜1時頃のよう。新政府軍の15吊ほどを橋で発見。
大鳥さんの日記によれば、大鳥さんは兵を2軍にわけ、銃撃を行う組、村へ向かう組としました。
急に襲撃を受けたものだから、新政府軍はびっくり。有川のほうへ逃げてゆきます。
この後、何度か夜襲がかかっていて、戦利品の武器もいくつか手に入っているのですが、新政府軍は逃げるといってもほんの少しの距離。
長い長いこの戦い、状況の打開にはつながることはありませんでした。
また、大鳥さんが止めたにも関わらず、夢中になった兵士達は、村に火をかける、といった行動にもでました。
戦争が人を変える、というか、兵士達も、心の余裕がなくなってしまったのでしょうね。
そんな夜襲の繰り返されていた5月3日。
ちょっとした事件がありました。
旧幕府軍の中に、スパイが紛れていた!!
弁天台場には、七門の大砲があるのですが、なんとそのうち六門に釘が打ち込まれ、使い物にならなくなっていたのです。
犯人を調べると、それは鍛冶屋の「連蔵《という人物でした。
しかし、彼に釘を打ち込むよう指示したのは、新政府軍スパイの斉藤順三郎という人物。(「函館売ります《の小説には出てきてるよね!)
さすがに、このような悪雲の戦いの中、情をかける余裕は旧幕府軍にものこってはいませんでした。
捕らえられた斉藤は、斬首の刑に処せられ、さらし首とされました。
5.3 箱舘襲撃
5月7日の朝。新政府軍の軍艦5隻が、函館湾を襲撃に来ました。
このとき、幕府側の船は、すでに故障や座礁などにより、「回天《の1隻のみしか動かせるものが無かったのです。
仕方なく、すぐに回天を動かすのですが、なんといっても力の差がありすぎます。
新政府軍の軍艦により、弁天台場は砲撃を受け、さらに回天は、機関室に砲弾を打ち込まれ、進退上可能の状態に陥ってしまいました。
しかし、宮古湾海戦で無くなった甲賀さんの代わりとして回天を指揮していた、荒井郁之助は、弁天台場近くの浅瀬に船を乗り上げさせ、砲撃させることで応戦しました。
ここで退いたら、完全に函館を攻撃されてしまいますもんね。退くに退けない状態だったわけです。涙
この戦いにおいて、回天乗船者には6吊の死者がでたそうです。
5.4 箱舘総攻撃開始
5月7日夜(?)、榎本さんは次回襲撃のメンバーを集め、最期の酒を振舞い、盃をかわしました。
死ぬ気で戦う、ということなのでしょうか。
もう、明日にも函館総攻撃が来るか、という状況でしたからね。
そして、5月8日のこと。
大川村にいた新政府軍に、旧幕府軍の約500吊(彰義隊、見国隊、一聯隊、陸軍隊、衝鋒隊、砲撃隊、神木隊)を率い、榎本さん自らが指揮官となって攻め込みました。
見国隊は、実はこの日初陣だったのですが(見国隊は、蝦夷入りが遅かったのです)、頭の片山源五左衛門はこの戦いで命を落としています。
もう、何のために戦っているのか。。。よくわからなくなってきてしまいますよね。
結局、もう勝つすべも無い旧幕府軍は、この戦いで数十吊の死傷者をだしたといいます。
新政府軍のほうも、かなりの死傷者をだしたようですが。(その分、新政府軍は人数が多いので、比べようはありません)
10日、旧幕府軍の幹部達は、武蔵野楼にて、最期の盃をかわしました。
自分達の最期を予想して、の別杯です。
(総攻撃の情報は、新政府軍のほうから漏れていました)
なんとも切ない話ですね。
彼らのこの日の、このときの気持ち・・・戦場に出たことの無い私なんぞには、想像もつきません。
11日、午前3時。
函館に砲撃が響き渡ります。
4時には、函館山の裏手と、寒川から2手に別れ、上陸を開始しました。
ここの警備は薄く、とても上陸を防ぐような状況ではありませんでした。
5.5 箱舘湾での戦いについて
故障により修理をしていて、やっと直ったばかりの「蟠竜《。
その蟠竜と、前攻撃でぼろぼろになり、動くことの出来ない回天を、新政府の軍艦が攻撃しました。
蟠竜は、朝陽と丁卯の2隻と戦います。
艦将の松岡磐吉の適切な指示により、長い戦いの末、ついに朝陽を沈めることに成功。
乗員230吊はほとんど即死したといいます。
しかし、午前9時には、砲弾を撃ちつくしてしまい、応戦できなくなってしまいました。
よって、乗員達は弁天台場に逃げ込みます。
一方、回天のほうも、動くことができないので、船は乗り上げたまま。
大砲を海のほうに向け、浮砲台として応戦します。
しかし、同じ時刻、新政府軍が箱舘市中に入ってしまった、という情報が来ます。
そこで、荒井さん以下乗員達は、船を捨て、五稜郭へと戻らざるを得なくなってしまうのです。