2.1 松前攻略



無事五稜郭入りを果たした旧幕府軍。

しかし休んでいる時間はありません。

松前攻略のために、土方さんを総督とした攻略軍が派遣されます。

それが、入城2日後の10/28のことでした。



と、ちょっとその前に。

どうでもいい話をします。

その二日間の間に、土方さんは松前兵の渋谷十郎と3度も面会しています。

なんか…うん、いいよね。

この渋谷さん、松前兵なんですが、函館に出張中に幕府軍に函館を占拠され、

帰れなくなってしまったので、土方さんに面会していたんです。

で、それはどうでもいいんですが(笑)、彼、松前進軍について詳しく書き残してくださっているのですが。

その中で土方さんが「戦うしかないな」と”艶然と”言った、と書いています。


艶然⇒(美人が)にっこり笑うさま:広辞苑より


うける!!美しく笑いつつ恐ろしいこと言ってる!!

渋谷さん、艶然て言葉の意味ちゃんと調べて使ったのかしら。笑

以上、どうでもいい話でした。



さて。

攻略軍は

彰義隊、額兵隊、陸軍隊、砲兵隊、工兵隊、守衛新撰組、衝鉾隊の約700名+カズヌーヴとブッフィエ

でした。



11/1には、松前藩領、知内に入ります。

その日の夜、軍は福島守備の松前兵の夜襲を受けます。

松前兵は民家を放火しちゃったりしますが、結局は陸軍隊の応援により敗走します。

次の日には、額兵隊、彰義隊は一ノ渡、山崎で松前軍の襲撃にあいますが破り、福島入りしますが、ここでも襲撃にあいます。

福島の法界寺を本陣としていた松前兵ですが、寺に火を放たれ敗走。



こうして土方さん率いる攻略軍は4日、福島を出陣しました。

途中の吉岡峠でも敗走した松前兵と会いますが、殆ど戦闘にはならなかったようです。

そして翌朝、いよいよ松前城を落としにかかります。

彰義隊は二手に別れ、大砲を撃ったり銃撃戦を行ったりして進み、午前11時には松ヶ崎が突破され、松前兵は城へ篭りました。



松前港では回天が城を砲撃し、額兵隊は法華寺(高台があります)を占拠し、城を砲撃。

松前の戦況はどんどん悪くなります。



しかし、攻略軍はなかなか城を落としにかかれずにいました。

それは、松前兵が、城門内に大砲を設置し、門を閉めておいて、開けるのと共に砲撃し、またすぐに閉める、という戦法を行っていたからです。

これには、攻略軍も困りました。

しかし彰義隊の決死隊が、門を開いたところに突撃し、門を突破します。



土方さんと一部彰義隊、守衛新撰組は、城の裏側に広がる寺町にまわり、梯子を使って塀を登り、進入しました。

不意の襲撃にあった松前兵は敗走し、攻略軍はついに松前城を落とすことに成功。

おめでとう土方さん。城に日の丸を掲げます。



しかし、このまま帰るわけにはいきません。

松前兵は、江差方面に逃げて行きました。

11/11、攻略軍は松前兵追討のため、額兵隊を先鋒として江差に向かいます。

そして13日、大滝にて、額兵隊は布陣していた松前軍約100名と戦闘になりました。

星恂太郎は兵を分け、一部を山中に迂回させ、頭上からの攻撃を指示、これによって額兵隊は勝利しました。

おめでとう!

松前兵は、さらに江差方面へ敗走していきました。







2.2 舘城攻略



さて、松前藩主である松前徳広は、津軽に逃れようと、まずは館城に向かいました。

(館城とは、松前藩の立てたもので、2ヶ月で急速に作ったものなので防御には向いていません。)

それを攻略するため、松岡四郎次郎(←変な名前笑)率いる一聯隊が10日に五稜郭を出陣しています。

13日、稲倉石関門に布陣していた松前兵と戦闘になります。

どちらとも勝機の見えぬ戦いでしたが、正午頃になると、松前兵の弾薬が切れてきたため、一聯隊は一気に攻撃を仕掛け、勝利しました。

松前兵は館城に敗走、一聯隊は館城へと進みます。



そして15日、ついに一聯隊は館城を落とします。

藩主松前徳広は12日に館城を出ていたため居ませんでした。

そして一聯隊は江差に向かうために、館城に火を放ち、進軍しました。







2.3 開陽座礁



そんな戦いが繰り広げられた15日。

江差では大変なことが起きてしまいました。

そうです、あれです。開陽丸の座礁です。



開陽丸は、当時最強と言われた軍艦であり、旧幕府軍の皆もこの船に賭けていたといっても過言ではありませんでした。


松前城が落ちた後、守衛のために残っていた人見勝太郎のもとへ、開陽に乗って榎本さんがやってきました。

これから江差へ向かう、と言った榎本さんに対し、人見さんは

「江差へ逃げた兵は少なく、わざわざこんな大きな軍艦で攻める必要はないし、どうしても行くなら風も強いから明朝まで待ってからでも良いのでは?」

と意見しました。

すると榎本さん、

「それは分かっているが、鷲ノ木上陸以来手柄はほとんど陸軍のもので、海軍の者達が不満を言っている。

気休めに、敵に砲弾を撃たせる事で不満も収まるだろう。これも戦略だ」

と述べたそうです。

あーあ…榎本さん…だめだよ。



これから起こることも知らず、開陽は15日未明に江差沖にやってきました。

榎本は下船して、進軍してくる土方隊に使者を送りました。


しかし、その日の夜、船は暴風雪に襲われます。

船体を動かすことも出来ず、開陽は座礁しました。

その後も暴風雪は続き、乗員がボートで脱出したのは3日後のことだったそうです。

そして、最新艦隊であった開陽は、戦場に出ることなく沈没してしまいました。

榎本さんや土方さん、どんなに悔しかったことでしょうね。



関係ないですが;;

28日、伊庭八郎と本山小太郎が函館に上陸しています。