(鎌吉)
私はその後を慕い米国の船で函館へ参りました。

ちょうど函館へ着きました日が、木古内で先生が肩から腹へかけて鉄砲玉にて撃ち抜かれた時でした。

この戦争は松前へ攻めに行く時で先生は先鋒でしたが、引き揚げて木古内に来られた朝、太陽に面を向けて指図をなさっておりました時に、遠くから来た玉が立ち樹に当たり、その木の片を包んだまま先生に当たって倒れられました。

先生の御世話をしたのは私と五十嵐でございます。





まさに、伊庭さんの世話係をしに来たといえます。いいなぁ。
最後の一文、それは自慢ですか??




先生は函館の病院へ入れ、松前の殿様の着た蒲団などを掛けてお世話しましたが、何分気性の勝った方ですから、大砲の玉が響くと死にかかって居るのに飛び上がる勇気ですので、医者が麻薬で精神を落ち着かせてやっと御死去になった程です。




松前の殿様!!奪ったやつですか?他にも怪我人はいただろうに…大事にされてるんだなぁ。

鎌吉、辛かったんでしょうね。
苦しそうにしてるのに、何もしてあげられないんですもんね。


(想太郎)
その後鎌吉は、兄の着ていた葵の御紋の洋服と髪の毛を持って静岡へ参りましたが、当時は官軍が様々の悪口など申し母なども聞くたびに激して居りましたが、ある日田舎住居の垣根の外をチョコチョコと通るものが御座いました。親が見ますと鎌吉で御座いまするので、互いに喜び遺物などを見まして母も安心致しました。





葵の御紋の洋服ってのは、伊庭さんが松前で着てたものですよね?
葵の御紋なのに洋服なんだー。見てみたいなぁ。

母上、八郎さんが怒りの沸点が低いのはあなたのせいですか??







この後、史談会に参加していた人達が我も我もと「伊庭八郎ファン倶楽部」に参加…ではなくて、伊庭八郎知識自慢を始めます。笑。 その辺のネタは、エピソードのほうをご覧下さい。 因みに、「伊庭君の墓は函館五稜郭土方歳三氏の墓の傍に在り」を誰かが発言したのはこのときです。 地味に、松平さんもこの史談会に参加してるから(笑)本当なんじゃないでしょうかね?むしろ、松平さんが言ってたりして。