★伊庭八郎って誰?


誕生日
弘化元年⇒1844年

伊庭八郎は江戸の心形刀流道場の御家人の長男として生まれました。

長男でも八郎(笑)本名は伊庭八郎秀穎(ひでさと)ですがね。どちみち八。笑。

土方さんとは9歳差ですねvV

幼少時代は病弱だったそうです。

しかもなんと剣術嫌いときた。笑。本ばかり読んでいたとかいいます。


しかし宮本武蔵の描いた書を見て、一気に剣術に目覚める!!うん、単純でかわいいvV時にして15〜16歳頃?

剣の腕はみるみる上達しました。一回夢中になればイバハチ、頑張っちゃいます。



1864年、将軍家茂を警護して上洛しました(このメンバーに土方さんもいます)。

伊庭さんは講武所剣術方(つまり超エリート!!)。

この頃には幼少時代とは打って変わり、剣術乗馬共に優れてました。

家茂から褒美とかももらってるし(すごっ)

伊庭さんは全部で三回上洛しています。いずれも将軍警護。1,2回目はグルメ道中まっしぐら。笑

1868年、遊撃隊が結成され伊庭さんも参加。彼の養父である秀俊は頭取を拝命しています。


そして薩長と戦うため再び上洛(3回目)。

鳥羽伏見で被弾し吐血しながらも勇敢に戦いますが、将軍の江戸退却が決定。

泣きながら反対するも警護として帰還しなければなりませんでした。



伊庭さん達遊撃隊の主戦派は、慶喜が謹慎の為水戸へ向かうと本隊を脱し旧幕軍と合流(土方隊とは別です)。

榎本武揚らと船でゲリラ戦を行うはずだったのに、勝海舟が榎本さんに、艦隊の一部を官軍に引き渡すよう要求。

そしたら榎本さんたら、脱走して戦うことを思いとどまりはじめました。

がっかりした遊撃隊は袂を分かちます。あーあ、何やってんだよ釜さん。笑



その後戦い続ける遊撃隊(離脱組)。

そんな中箱根戦争で、伊庭さんは左手首(肘下あたり?)に重傷を負い、微妙につながっていたものの腐ってしまうので切断手術を受けます。

この時麻酔とかないのに声も上げずに耐えたといいます;;

怪我してから約3ヶ月、伊庭さん達遊撃隊離脱者は蝦夷へ向かうため出航。

しかし台風で座礁してしまいます…かわいそうっ

一時は自殺を決意する彼ですが、説得されなんとか生き延びる。

単純なイバハチ、一回生きようと思えば強い強い。笑

上総に潜伏した後、横浜にて匿ってもらいます。



土方さんと同じように、女関係はばっちりの彼。笑。

なじみの遊女小稲がお金を用意してくれるんです。

そのお金で1868年イギリス鑑に乗り込んで函館へ、榎本武揚の旧幕府軍に参加、遊撃隊と合流し歩兵頭並に就任します。

しかし4/20、胸を被弾して重傷。残念ながら回復のすべはありませんでした。



死亡因は多説あります。命日は土方さんの次の日5/12←という説が有力

遺体は土方さんの遺体の隣に並べられたそうです。享年26。



★伊庭八郎のイメージ


病弱だったせいもあり色が白かった伊庭さん。

白皙美好、清秀なる中に和気あり。なんて言われてますvV

性質は豪快で素直、「猛る気が体中に満ちあふれ」ている男と評されてたり。笑

…とまあ素敵に格好良いワケですよ。

でもね、実はちっちゃかったんです、身長が…

160cmなかったんだって。

とはいえ当時の男性の平均身長が160くらいですもんね。

平均より小さいくらいかな?。


横浜に潜伏してたときは坊主頭です。

隠れていたので、僧に成りすましてたんですね。

少なからずショックを受けた坊主頭を知った日…笑



それから、癖。

伊庭八郎を偲ぶ会(や、これ別に私がつけた名前じゃないから!)で、誰か(名前はわかんないんですが)が言ってた伊庭の癖。


八郎君は、剣術の稽古の時、足で板を蹴る癖あり


なんだそりゃーvV

めっちゃ可愛いじゃんか!!!

威嚇!?威嚇ですか!?



★死亡因


伊庭さんの死亡因には諸説あります。

有名なのが二つ。服毒死(有力)と、戦での被弾による死亡説。

被弾というのは4/20の戦いで胸に銃弾が入ってしまったという史実によるものです。

弾を取り出すことも出来ず、後は死を待つしかない状況だったんですね。

5/12まで生きていたのが奇跡と言えるそうです。



もう一つの説。被弾して助からないとこは同じなんですが、土方さんが亡くなり降伏を決定した旧幕府軍榎本武揚により、モルヒネを渡されたという話があります。

伊庭さんにも恭順の気はありませんでしたし助かる見込みもなかったので…。


一説では伊庭さんは毒と知らされていなかったけれど、彼は気付いていてその上で知らなぃふりをして飲んだとか…切なっ;;



★遺体


伊庭さんの遺体は、五稜郭内に埋められたんですが…。

彼の遺髪は従者によって持ち帰られ、伊庭家の菩提寺である浄土宗貞源寺に葬られています。

貞源寺は、東京都中野区にあります。

地図にも載らないくらい(ほんとに/笑)のちいさなお寺で、かなり迷子になりやすいですが;;

しかも住宅地にまぎれてるし。

最近、伊庭家のお墓が分かりやすい場所に移されました。

以前は、お墓の中で迷子になるくらいごちゃごちゃしてたんですよ。

わたし達、2人で行って、10分以上探しましたもん。笑←これはかかりすぎです。

とにかくここに遺髪の埋められた墓があるわけです。

一度行ってみたらいかがですか??お墓も古いままですよ★

(伊庭八郎の遺体の謎については、土方歳三部屋の埋葬地に詳しく乗っています。)



★伊庭と土方


伊庭八郎と土方歳三。この二人が友達だったという話があります。

これは何を根拠にしたどんな話だったんでしょう??



始めに述べておきますが、実際のところ二人が友達であったことを確証する史料は残っていません。

ただ、ある人物が聞いた話を書き留めた物が残っているのみです。

なので、正しいかどうかはわかりません。私は信じてますがね…むしろ推奨。笑



流泉小史という人をご存知ですか?

彼は明治時代を生きた作家であり、また「剣豪秘話」という資料を刊行しています。

その資料を書く上で話を聞いた人物…


実は、「伊庭と土方が友達」という説の出所は晩年の永倉新八だったんです。

流泉小史は永倉さんから聞いた話としてこんな感じの内容を載せています。

「近藤周斎先生はたいていは懐が豊富で、それを狙うのが第一にいたずら者の伊庭八郎と土方歳三で、両人でよく口実を作ってはお小遣いをねだった」



また、

伊庭は試衛館道場に三日と明けずに遊びに来ていた」 と記してあります。

永倉さんが話したことなら、結構信憑性高くないですか?



一方、こちらは流泉小史の書いたものですが恐らく作り話と思われているもの。

歳三は遊び人でしたよね。いつものように吉原での馴染みの妓・黛と情を交えた後の帰り道のこと。

歳三と黛の仲を不快に思った黛の先客たちが、道で歳三を襲いました。

歳さんピンチ!!

と、そこへ駆けつけたのが伊庭八郎と近藤勇。

二人は歳三の助太刀をして見事刺客に打ち勝ったそうです。

…格好よすぎる伊庭(と近藤さん/笑)。

これが一体何なのかはわかりませんが、おそらく永倉の話を元にして流泉小史が「作った」んじゃないかと思われています。


まぁ、この話はともかく二人はやっぱり昔からの交流があったんじゃないでしょうか???

真実はわかりませんが、そう思いませんか