6.1 五稜郭攻撃と降伏勧告



5月11日の総攻撃により、箱舘政府の陣地の残すところは、拠点である五稜郭、そして千代ヶ岡陣屋、弁天台場のみになってしまいました。

12日になると、新政府軍は五稜郭への砲撃を開始します。
敵艦は、宮古湾でその威力を発揮した甲鉄。


ちょうど、五稜郭内で食事をしていた衝鋒隊の真上に、砲弾が飛んできました。
これにより、5名の隊士が即死、その他多くが負傷したそうです。

この中に、隊長であり、医師高松凌雲の兄である古屋作左衛門もいました。
彼はここで大怪我を負い、1ヵ月後の6月14日、それが原因で亡くなりました。


そして5月13日。

新政府側から出された降伏勧告に対して、箱舘政府側は返事を送ります。

そこには

「もとより覚悟してのことなので、今になって降伏しようというつもりは無い。皆、潔く討ち死にしようと誓っている。 しかし、私達2人(榎本・松平)は、もしも新政府が他の者達に、相応の土地を蝦夷地に与えてくれるならば、罪に服すことをしようと思っている。」

と書かれていました。

振り返ってみれば、榎本さんが蝦夷地を選んだ理由のひとつは、この土地を、土地を失った幕臣達で開拓しようとしたんですね。
最期までそのことを考えている彼、感銘を受けます。

さらに榎本さんは、自らが大切にしている「万国海律全書」を託しました。

この海律全書というのは、実は榎本さんが翻訳したもので(英語からオランダ語に翻訳されたものを、榎本さんがオランダ語に翻訳)、国際法と 外交について書かれている本です。

(現在でも保管されています。榎本さんが訳したときのメモ書きなどがついていますよ)

この大切な本が、賊軍のものとして処分されてしまったり、紛失してしまうというのは、あまりに勿体無い。
榎本さんはそう考え、差し出したわけです。

「これは無二の素晴らしい本なので、これが今、戦場の灰塵となってしまうのは何とも口惜しい。願わくは、この本をもって長く国の重宝としていただきたい、そうすれば私の忠心も救われるでしょう」

これには、敵将である黒田清隆も感動したと言います。



6.2 弁天台場の降伏



弁天台場は、総攻撃によって完全に孤立してしまった状態にありました。

篭城を続けようとした隊士たちですが、攻撃により貯水器を破壊されてしまったために、水も無い、もちろん食べ物も無いとなると、篭城が出来るはずもありません。

13日、新政府側からの使者(薩摩藩、片山米右衛門)が送られました。
一時は「五稜郭と相談の上で」と降伏を拒否した箱舘政府軍でしたが、「孤立して応援もなく、進退も決定してしまっては、降伏し天裁を待つしかない」(蝦夷錦より)ということで、函館奉行の永井玄蕃を始め、新選組最後の隊長である相馬主計、蟠竜の艦長・松岡磐吉らは、協議の上ついに降伏を決意したのです(15日夕方のことです)。


15日になると、永井玄蕃と榎本武揚は、薩摩藩士3名と会見しました。

降伏を勧める薩摩藩に対し、榎本さんは降伏を拒否。
しかし、この日の会見により、五稜郭内の負傷者たちを、湯の川に移送することを認めてもらいます。

よって、その日のうちに負傷者達約200名は、湯の川へ送られました。

(「伊庭八郎と春日左衛門は、どうしても五稜郭にとどまるんだと言い張った」と後に田村銀之助が語っていることを考えると、伊庭さんはこの日まで生きていた可能性が強いですね;;実際はどうなんでしょうか??)



6.3 黒田清隆からの贈り物



海律全書を榎本さんから贈られた、黒田清隆。
黒田さんは、この榎本さんの行為に感動しました。

そこで16日、黒田さんは、なんとお酒5樽を、五稜郭の箱舘政府に送ったのです。
(海律全書を送ったからかどうかはわかりませんが。。。苦笑)

しかもしかも。

一緒に備え付けられていた書状には、

「兵糧(食べ物)や弾薬が少なくなっているなら、お贈りします」

とあり。。まぁ、もらうはずがありませんけどね;;

榎本さんは

「弾薬も兵糧も、当分、乏しくはありあません。」

「お贈りいただいた樽は、ご好意に感謝し、頂きます」

「いつでも攻撃してくださってかまいません」

等の返事を返したと言うことです。


とはいえ、敵軍から送られたお酒。。。

箱舘政府の皆、毒入り!?と考えて飲めません。



と、嫌〜な空気をぶち破ったのが、狂人とまで言われた(笑)小さいけれど豪傑な男、額兵隊隊長・星恂太郎。

「みな、怪しむことはない。我らは、この五稜郭を守って、もはや滅びようとしている。仮にも勅命を旨として、人々を救うことを大儀としている者達が、この場にいたって毒で、我々窮兵を苦しめたりするだろうか!私が試しに飲んでみましょう」

そう言ったと思ったら、いきなり大椀で2〜3杯飲み干し

「これは真の美酒である」

と告げたそうな。天晴れです。



これをみた榎本さんは大いに笑い、その後皆で酒を分け合い、労をねぎらいましたとさ。ちゃんちゃん。



6.4 千代ヶ岡台場



千代ヶ岡台場といえば、中島三郎助親子が有名ですね。

この場所は、中島隊と砲隊、陸軍ら約50名が守っていました。

15日、五稜郭からの退出勧告がありましたが、中島三郎助は

「この郭は我が墳墓の地なり」

と言って動こうとしませんでした。

新政府軍の攻撃は16日、午前3時頃開始されました。

この戦いで、約半数が亡くなったそうです。

この中に、中島三郎助(57)、そして息子の恒太郎(22)、英次郎(19)も討死しました。

わずか、1時間の戦いだったと言います。

函館市中島町には、彼らを追悼した「中島三郎助父子最期之地碑」があります。



6.5 五稜郭降伏



16日早朝、榎本さんは弁天台場降伏の知らせを聞きます。

そして降伏を決意、抗戦を断念しました。


その日のうちに、榎本さんは自刃しようとします。

自室にて、短刀で腹を切ろうとしたところを、彰義隊改役の大塚鶴之丞が必死で止めたそうです。

榎本さんは、自らの命をもってして、部下の命を救おうとしたのでしょうか。



そして、17日、亀田八幡宮にて降伏を誓願し、18日、ついに旧幕府軍は五稜郭を開城し、戊辰戦争は幕を閉じたのでした。





〜箱舘戦争講座・完〜

長らくのお付き合い、ありがとうございました。