★なじみの花魁小稲


詠み方は「こいな」です。「こいね」ではありません。

この女性は、吉原・稲本楼の遊女で、伊庭八郎のなじみであったと伝えられています。

しかしながら彼女に対する情報は殆どありません。

伝わっているエピソードは、伊庭八郎が、蝦夷への船に乗る際に、50両のお金を出した、ということくらいです。



また、河井継之助の馴染であった「小稲」。

よく、伊庭八郎の馴染の小稲と同一人物と言われますが、時期的に同一人物である可能性は低いと思われます。

河合が小稲と馴染であったのは1859年。

伊庭が蝦夷へ向かったのは1868年。

9年間花魁で居続けることは難しい。しかし、どちらの馴染も花魁でした。

つまり、ここで仮説が生まれます。

伊庭八郎の馴染の小稲はおそらく4代目(これについての詳しい記載は後にあります)。

河合継之助の馴染は3代目だったのではないでしょうか?


そうだったとしたなら話は成り立ちます。

同一と言われがちですが、どう思いますか??



★高橋由一と「花魁図」〜伊庭の馴染は4代目?〜


皆さんは、明治5年に描かれた、高橋由一の作品「花魁図」をご存知でしょうか??

これは、稲本楼の花魁「小稲」をモデルとして描いた作品です。

モデルとなったこの女性、花魁としては年を取っているようです(24〜27くらいと伝わっています)。

稲本楼の小稲は5代目まで居るそうですが、4代目小稲は慶応2年頃から明治5年秋まで「小稲」の名、5代目小稲は明治5年秋から小稲と名乗って居ます。

とすると、おそらくこの絵の小稲は4代目であろうと考えられています。



さぁ。

伊庭八郎の馴染、小稲。

高橋由一の描いたこの女性と、伊庭八郎の馴染の小稲は同一人物であった可能性がとても高いのです。


4代目小稲は1866年から6年間。

(前ページで出てきた河合の馴染は、やっぱり3代目だと思います)

この時期伊庭は何度か上洛していますが、その他の時期は江戸にいますし、小稲の馴染になっていてもおかしく無いですよね。

また、4代目小稲の名を襲名する前から馴染だった可能性だってあるわけですし。

そんなわけで、伊庭の馴染の小稲は4代目であった可能性が高いわけです。



★高橋由一と「花魁図」〜絵の女性〜


仮説。

伊庭八郎の馴染はこの絵の女性であった。

そう考えることにしましょう。

馴染の小稲、彼女の名前は亀井さだ。

明治5年秋の「娼妓解放令」によって自由の身を得ます。

そう考えると、5代目の小稲は襲名期間が物凄く短いんですね。

旧幕浪人の吉田駒次郎という男と結婚し、根岸に住み、明治19年頃には静岡で暮らしていたそうです。

また、襲名中の小稲について興味深いことがあります。

この小稲は、のち大阪商法会議所副会頭となった中野梧一(旧名斎藤辰吉)を戊辰戦争当時かくまったりした

斎藤辰吉は戊辰戦争の旧幕府軍の一人です。

榎本武揚の命で官軍に降伏の書状を届けた人物。

しかもこの人物、美嘉保丸座礁のときに、伊庭八郎を助けた一人でもあるんです。

その後伊庭が潜伏生活を続けてるときに、斎藤は小稲に匿われていたんでしょうかね?

伊庭と小稲と斎藤の関係ってどんなのだったんでしょう。

伊庭の馴染が小稲で、伊庭を通して斎藤は小稲に匿われた?

伊庭と斎藤が友達で、実は馴染の花魁が同じ人物だった?

よくわかんないですけど、意外なつながりがあるもんですね〜。

以上。花魁、小稲についてでした。

参照:
★日本の名画2 高橋由一
★webサイト様:平野太一「稲本楼・四代目左近小稲について」