中島登
誕生日
天保9年2月2日⇒1838年2月25日
武州八王子出身。東京都ですね。
ご存知、新選組の姿絵を描いたお方であります。
彼は天然理心流二代目の近藤三助から学んだ山本満次郎に、天然理心流を習います(複雑な書き方だなぁ;;)
文章能力なくてすみません。
彼は1857年に結婚してるんですよ。で、彼は天然理心流の門人じゃないですか。
近藤さんは門人から新撰組隊士をとるときに、長男または妻帯者を入隊させなかったんです。
だから彼は入隊志願するも、認めてもらえないんです。
つまり、正確には新選組隊士じゃないんですよ。
その代わり、彼は近藤さんから密命をうけ、関東の状況視察を行ってたとか。はっきりはしてませんがね。
正式に新撰組に入隊したのは、慶応3年に土方さんが江戸に隊士募集に下ったときです。随分後ですよね。
二条城に登城する近藤さんの警護をやったりしてます。
このときの目撃談がこちら↓
「色がぬけるように白く、目は細く、目の下に大きなほくろがある」
いいなぁ、色白。。
泣きぼくろですかそれ/笑。女だったら最高じゃん。
結局一年足らずで鳥羽伏見の戦いがおき江戸に降下します。
近藤さんが捕まったときは土方さんに命を受け、救済のためにいろいろ動くも失敗に終わりました。
その後、土方さんたちと戦い続けます。
役職は局長附小頭助役。…難しいなぁ。
土方さんが戦死すると新撰組は捕虜となりますよね。
その時書いたものが、「中島登覚書」と「戦友姿絵」です。
「覚書」は、後の明治3年に彼が土方さんの家に立ち寄って、そのとき土方家の人が書き写したものが現在残っています。
捕虜になっての一部始終が書いてあります。
静岡に行き、浜松に住みます。
再婚までしてますよ、この人。
鉄砲店の免許を得て、鉄砲商として成功したそうです。
明治20年、永眠。享年50。
そんな中島さんについて、もっと知りたい??
☆会津戦争のとき、重傷を負った彰義隊隊士大島清慎を救護所まで運んだ
☆明治になってからの話。趣味で栽培していた葉蘭に偶然新種が誕生した。
品評会にだしたところ、金玉廉いう名で大人気に。
しかしある日、馬が親株を食べてしまったという…だから販売はおしまい。うわっ、せつねー!!
☆中島家には家訓がある。
一、食物の事につき一切好き嫌いを云うな。
一、碁、将棋など勝負事は一切やるな。
一、質屋、金貸しは孫子の代までやるな。
☆辞世の句 たかくとも 五十(いそ)の峠をやすやすと 越ゆれば御代の 春ぞのどけき