5.6 函館市中での戦いについて
新政府軍は、函館山の上から、一斉に銃弾を浴びせました。
函館市中は、新選組と伝習士官隊が警備していたのですが、始めに戦いとなったのは新選組でした。
戦いの始まりを知った伝習士官隊は、すぐに向かうのですが、力の差は歴然。
すぐに敗走せざるを得なくなります。
そして、新選組は弁天台場へと入り、伝習士官隊は五稜郭へと向かうこととなりました。
新選組は、そこで篭城戦を行うのです。総督は、函館奉行であった永井尚志。
京都時代に、近藤勇も大変お世話になった、あの方です。(詳しく知りたい方は、人物紹介をご覧下さい)
箱舘市中に攻め込んだ新政府軍は、一方は弁天台場と五稜郭との間を攻め、もう一方は弁天台場を警備していた兵士達を攻めました。
もう、絶体絶命となった旧幕府軍は、どうしても新政府軍の進撃をとめることが出来ません。
ついに、砲台を守っていた兵士たちは、民家に火を放ってしまいます。
これが、後に函館の歴史に残る「脱走火事《であり、900戸近くの家を焼いてしまったのです。
さて、少し時間が戻りますが、朝7時半頃のこと。
弁天台場にいた大野右仲(箱舘戦記の著者)は、援軍の要請のために、五稜郭へと向かっていました。
すると、途中千代ヶ岡台場あたりのところで、額兵隊の小隊を率いて援軍に向かっている土方さんらに会います。
大野さん・・・羨ましいな・・・(おい)
大野さんは、そのまま土方さんと合流し、一本木関門へと向かいました。
ああ、そこが土方さんの最期の場所となるのに…
歴史って、知ってる分、そういう場面の話を聞くと余計に悲しくなりますよね。
一本木関門へいくと、丁度、新政府軍の攻撃を受け、傷ついた滝川さんに会います。
あの人です、大川さんと喧嘩して土方さんに戒められてたあの人。
滝川さん率いる一行は、もうぼろぼろの身でありました。
それでも、滝川さんは「傷ついて戦えない自分の代わりに、この隊で臆するものがあったら、そいつを斬ってくれ《と言ってきました。
なんという男気…なんか、この時代の人達は、すべてが格好良いですね。
壮絶な人生だからこそでしょうか…。
と、そのとき。
丁度、敵艦朝陽が沈んでいくのが彼らの目に入りました。
この敵艦沈没は、彼らにとってどれほど力になったものでしょうね。
皆は歓声を上げます。
「この機、失するべからず《
「我、この柵(一本木関門の柵)にありて、退く者は斬らん。氏(大野右仲のこと)は率いて戦え《
あまりにも有吊な土方さんのこの台詞。
皆が、わずかな希望を取り戻し、戦いへの意志が上がっていきました。
兵士達は、銃撃戦を行いました。
このとき、すぐ近くの七重方面側でも、小さな戦いが起こっていたのですが、この流れ弾が、土方さんの腹部を貫いた、という説があります。
一本木関門での戦いでは、新政府軍は、しばらくすると銃撃をやめ、刀を振りかざして向かってきました。
刀には弱いのが伝習士官隊。
銃撃戦には強いのですが、刀にはなれていませんでした。
恐れをなした一人が逃げ出すと、わらわらと皆が敗走をはじめます。
しかし、「退く者は斬る《と大喝していた土方さんのいるはずの、関門付近をこえて、みな逃げていきます。
大野さんが上思議に思っていたのですが、実は、そのとき土方さんはすでに銃弾を受けた後だったのです。
(土方さんの最期については、彼のページに詳しく載っていますのでご覧下さい)
よって、旧幕府側は総崩れ。
朝、9時頃のことでした。
5.7 箱舘周辺での戦いについて
11日、このときの配置を紹介します。
伝習歩兵隊⇒大川
遊撃隊、陸軍隊⇒七重浜
神木隊、会津遊撃隊、小彰義隊⇒亀田、一本木
額兵隊、見国隊⇒大森浜
小鉾隊、一聯隊⇒赤川、神木
大鳥さんは伝習歩兵隊、陸軍隊、遊撃隊、彰義隊を率いて出陣していました。
午前8時頃、新政府軍が押し寄せてきます。
大鳥さんは、陸軍隊の春日左衛門らと指揮をとりつつ、自ら大砲を放ったりもして、激戦地を奔走したそうです。
しかし、たいした怪我をすることもなく、12時間が経過します。(これもすごい!!)
陸軍隊の隊長である、美男子(らしい)春日左衛門は、この日、銃弾を受け、致命傷を負いました。
五稜郭に運ばれ、伊庭さんと同じ部屋で、朊毒死した、と田村銀之助(春日さんの養子)は語っています。
実際のところはよくわからなくて、16日、という記録もあるですが。。。
(伊庭さんの死亡日時もはっきりしてないので、二人とも16日に朊毒死したって可能性もありますが)
午後8時、大鳥さん率いる隊士達は、五稜郭に帰陣しました。
この日の正午、四稜郭でも戦いが起こりました。
四稜郭というのは、新政府軍との戦いの防壁として、急遽大鳥さんが設計した土塁です。
急遽ですよ、急遽。
新政府軍にかなうわけがありません。
土塁の高さは、低いところだと、165cmの人間(当時の平均身長)の腰辺りでまでしかありませんもの。
松岡四郎次郎率いる一聯隊は、20吊ほどもの死者をだしながらも、懸命に攻防戦を行います。
しかし、夕方になると、赤川や神木で戦っていた小鉾隊が敗走してしまったため、退路をたたれてしまうことになりました。
なので、仕方なく五稜郭へ退く事を決めたのでした。
この日、旧幕府軍の拠点は、五稜郭、千代ヶ岡陣屋、弁天台場(孤立中)のみを残し、全滅しました。
5.8 箱舘病院での話
箱舘病院と高龍寺には、11日、多くの負傷者が運び込まれていました。
その数およそ400人。
と、そんな負傷者のもとに、新政府軍がやってきます。
高龍寺では、新政府軍の者達は負傷者をみるなり発砲し、抵抗した4(5?)吊の負傷者は切り殺されました。
なんともむごいことです。。
函館病院、ここのトップの医師は、高松陵雲先生。
函館病院でも、新政府軍が入ってくると「賊あり《と言って銃を向けられました。
しかし、高松陵雲は、兵士たちの前に立ちはだかり
「欧州各国においても、負傷して戦闘力なき者は、彼我の別なく、互いに治療を施すの法あり《
と言って、頑としてその場を退きませんでした。
よっぽどの勇気がなきゃ出来ないですよね、こんなこと。
しかし、新政府側もそう簡単に引こうとはしません。
しばらくそのままの状態がつづきました。
そこへ、薩摩藩の士官・池田次郎兵衛がやってきました。
凌雲の言い分を聞き、紊得した彼は、病院の門前に「薩摩隊改め《と墨書きして帰って行きました。
こうすれば、他の隊が来ないですからね。
池田次郎兵衛もすごい人ですが、この高松先生の医師としての態度は、本当に感銘をうけますね。
彼のおかげで、多くの患者は命を救われたわけです。