石鹸の製法
榎本さんは、函館戦争に敗れ、牢獄にいたときに、本を書いています。
それは、焼酎やらチョークやらロウソク、硫酸、メッキ等、などの製法を書いた技術書でした。
その中の一つに、石鹸があります。
榎本さんはこの製法を、家族に宛てて手紙で送っています。
そしたら、親戚の者たちが作って家業にしてみたところ、大繁盛!!
石鹸は町の人気者になったわけです。
そして、なんと現在有名な化粧品会社である「資生堂」。
これのはじまりとなったのでした。
まさか化粧品会社に彼が関わっているとは思いませんでしたよね!
榎本好きの皆さん、明日から化粧品は資生堂で!!
開陽丸が沈まなかったら
「同時代史」という本に、榎本さんと三宅雪嶺の対談が載っています。
三宅「海陽丸が沈没しなかったなら、どうなっていたでしょうか」
榎本「戦争は長引いただでしょう」
三宅「どのような結果になったと思いますか」
榎本「とばしりが朝鮮にまで及んで、事が大きくなっただろうと思います」
だそうです。
これがどういうことを意味しているのか、頭脳の乏しいくろみつにはわかりませんが(爆)。
んー、榎本さん、朝鮮まで逃げるつもりだったとか??←違
榎本さんの、貴重な函館戦争について語ったものです。
オポチュニスト
明治政府官僚となってからは、民衆から「明治最良の官僚」という評価を受けた榎本さん。
でも一方、福沢諭吉なんかには
「無為無策の伴食大臣。
二君に仕えるという武士にあるまじき行動をとった典型的なオポチュニスト。
挙句は、かつての敵から爵位を授けられて嬉々としている「痩我慢」を知らぬ男」
とか言われて批判されてます;;
まあ、考え方は人それぞれ。
私は、こういう生き方もありなんじゃないかと思うんですけどね。
西洋かぶれ?
榎本さんは、海軍に洋装を取り入れ、オランダから沢山のものを持ち帰りました。
そして函館政府においても、西洋の技術をふんだんに生かしています。
あの素晴らしい(?)ヒゲもそうですよね。生かしちゃいましたよね。
たしかにそんなことから、彼はよく「西洋かぶれ」のように言われます。
まぁ、この時代はそうだったのかもしれませんね。
オランダで、日本にはない西洋の偉大な技術を見せ付けられたわけですし。
しかし、明治の世になって、文明開化がおこり、まさしく西洋かぶれの時代。
そのときの榎本さんは、西洋かぶれなんかではありません。
極端な西洋かぶれは嫌いらしい彼。園遊会(欧米風のパーティーです)には、あえて和装で参加したことも。
…単に人と違うことをするのが好きとか・・・笑
語りたがらない戊辰戦争
榎本さんは函館戦争について殆ど書き残したり語ったりしませんでした。
ある人が、北海道へ脱走したときの感想を訪ねると
「なあに、つまらぬことさ。
今ならあんな幼稚なことはせなんだが、何様、帰朝当時、何が何やら、わやわや騒いでばかり居ったので、
不得要領のことばかり聞くし、一つは長州人などと云ったとて、今ならば皆知ってもいるが、当時はどこの馬の骨だか分からぬので、抵抗してみたのさ」
と軽く交わしたそうです。
彼は息子にも一言も戊辰戦争について語ってはいないそうです。
切ない…
榎本武揚の最後
榎本さんの最後を看取った医師の話。(明治41年10月27日の読売新聞より)
「発熱の激しい時のみならず常にうわごとを吐いておられました。
よくは聞き取れませぬけれど函館戦争当時を回想せらるるもののごとく”大鳥圭介…”だの”西郷…”だのと仰っておられました。」
ということです。
これに対して、歴史読本では、こうまとめています。
「終焉を前にした榎本武揚の薄らぐ意識下にあったのは、明治新政府での華々しい経歴への回顧ではない。
幕臣として本分を果たし抜いた、昔日への想念だったのである。」
切なすぎです。
彼が死ぬまで手放せなかった函館戦争の大きさは、いかほどのものだったのでしょうね。