荒井郁之助



誕生日
天保7年4月29日。⇒1836年6月12日。

幕府御家人の家の子として、江戸の湯島に生まれます。 幕臣の子だけあって早いうちから学問を学びます。見習いたいものですね。

7歳での漢学に始まり、剣術、弓術、馬術等習い、14歳で昌平坂学問所に入りました。
さらに砲術、蘭学、数学、航海術も修めるという超優秀な人なんですね〜、すごい!!
築地軍艦操練所の教授にも命じられまています。

因みに、彼が数学を習った叔父の私塾には甲賀源吾がいます。

26歳にして軍艦操練所頭取となり、慶喜公などのお偉いさんがたを船で送ったりしてます。
また、同時に江戸湾の測量や小笠原諸島の測量にも従事したり。偉いなぁ。

一時期、講武所頭取になり海軍職を一時離れ、1865年には歩兵差図役頭取となり、横浜で大鳥さんらとフランス式軍事伝習を受けたりもしてますが、後にまた海軍に戻ります。

江戸を脱出し蝦夷へ向かうと、海軍奉行に就任。

甲賀と共にアボルタージュを立て決行するも失敗し、甲賀を失いました。涙

降伏後は北海道開拓史として新政府の一員として働くものの、1876年には辞任、農学校や女学校の校長を務めます。
開拓使仮学校の初代校長になっているのですが、この大学、現在ではあの有名な北海道大学でごさいます!

わー、勉強して北大入ればよかったぁ;;
これから大学を考えてるみなさん!是非に!!!!笑

で、荒井さんが特に有名になったのは、この後!!

気象庁に貢献し、日食の観測(日本初の太陽コロナの撮影)を行いました。

さらにメートル法を取り入れたり、経度を決定したりもしました。←これって、けっこうびっくりじゃないですか!?

内務省測量局長にも就任。
明治23年には、初代中央気象台長への就任
を果たしています。 すごいですね。天気予報を見るたびに、彼のことを思い出してください。

明治42年(1909年)7月19日、糖尿病で病死。享年74。



そんな荒井さんについてもっと知りたい??

☆荒井さん、海軍奉行のくせに水泳が超苦手だったらしい。笑

☆下戸で、甘党。汁粉大好きでした。
  まぁ、そんな甘党な人なら、糖尿病で亡くなってるんなら本望…か…??

☆降伏後の戸籍には自ら平民と書き「敗軍の将再び兵を語らず。牢獄から出てきたとき、私は剣を捨てて、生まれ変わったのであるから、平民となる」と語ったらしい。うを!!格好良すぎvV

☆数学を習っていた時代、荒井さんの自宅に甲賀さんが住み着いていた。仲良かったんですね。
  でも、め…迷惑な…爆

☆碧血碑の写真を土方さんの家に送ったのは荒井さんという説がある。
 これは超気になる話。いづれ詳しく調べてみるつもりです。

☆気象庁長官時代、部下の見せた報告書にいつもケチを付けることなく「至極結構」と言っていた。しかもあだ名にまでなったそう。笑

☆回天が沈んでから30年後、回天の木材は拾われ、椅子が作られた。それに荒井さんは偶然座り、それを知って感慨にふけった。

☆横浜の海軍伝習所では、大鳥さんとルームメイトだったらしい。哀れ。笑